「江東区助け合い活動連絡会」「NPO法人こうとう親子センター」
代表、町内会会長等を勤めている 渡辺 恵司さん
地域のため、子ども達のため、高齢者のために、えがおで活動中
渡辺恵司さん
昭和15年6月1日生まれ。
埼玉県与野市(現さいたま市)6人兄妹の次男として生まれる。祖父が染糸工場を経営していたが昭和18年、戦争協力の要請で工場鉄材、染物釜などを供出、父親は出征。
働き者の両親の元
父は終戦後間もなく復員、鉄工場に勤め、家族を連れて実家から独立。3、4年部屋を借りて生活をしたというが、その後、建売を購入した。
父は口数が少なく、昼夜なく働き、母は優しくて、強い人で、3人の子どもを連れて、乾物の行商をしていたそう。
働き者の両親は建売購入後、2年で300坪の土地を購入し、家を建て移転した。
外遊びが好きなわんぱく少年
小学校へ入学するまでは身体が弱かったという恵司さんだが、「入学後は元気いっぱい。外遊びが好きなわんぱく少年だった」と笑う。
昭和26年、朝鮮動乱で特需景気の戦後初の好景気も戦争終結でなべ底景気。会社は倒産。高校1年生だった長男は夜間の定時制に切り替え母の代わりに行商へ。母は、家に入り、お針子さんを育てながら、和裁の先生、呉服屋さんからの仕立ての仕事をしていた。間もなく電気、ガス等の工事会社を創業、現在に至っている。
仕事と勉強の二刀流
恵司さんは中学卒業後、浅草にあった貼り函製造の会社に住み込みで勤め、18歳の時に夜間の専門学校へ入学。続いて短期大学2部に入学。仕事と勉強の二刀流を続ける。
25歳で借地の小さな家屋を購入し貼り函製造業として独立。購入資金は「一人で努力してここまで頑張ったのだから」と言う兄の口添えで購入の半分を両親が出してくれたそうで、両親と兄の想いに、涙が出るほど嬉しかったという。
独立間もなく結婚、3人の子どもに恵まれ事業拡大、現在の地に移転。
いち早く機械化を進めた恵司さんの会社はクオリティの高い製品を作り、ブランド企業等からも注文が入ったそう。10年程前からは皇室行事で使う贈答の函注文も戴けるようになった。
カンボジアの子どもたちの支援に尽力
40歳を過ぎた頃、地元の社会教育団体の壮年リーダーに推され、江東区ボランティアセンターへ行って話を聞き、ボランティアとして個人登録。障害者のサマーキャンプ支援を続けた。その数年後、新聞で見たカンボジア少年の姿にショックを受け、カンボジアの子ども達支援をしたいと考え、専修大学二部に入学。54歳での大学生活が始まった。
その間に出会った様々な方々の協力を得て、カンボジアの植林と子ども支援の「森を再生させる会」を発足。現地に3つの小学校を贈呈した。
もう一度大学へ行って勉強がしたい!
カンボジアの活動などを地域の小学校等で話す中で、国内での幼児虐待などを知り、親支援の「子育てたんぽぽ」を、その後、研究会を続け、NPO法人「こうとう親子センター」の発足に結びつける。
地域のために、子ども達のために、高齢者のためにと、ひと時も立ち止まらず活動を続けている。今後の目標を伺うと、「これまでの支援活動を続けながら在留外国人との多文化交流を進めるために、もう一度学校へ行って勉強がしたい。でも、夢で終わるかもね…」と。
えがおと共に、意欲的な答えが返ってきました。