弁護士 公益財団法人人権擁護協力会 理事長 中村浩紹さん
市民に寄り添い57年の弁護士。現役で活動中!
昭和11年1月12日、東京日本橋の地で4人兄弟の長男として生まれる。
国民学校3年生の時に父の生家がある千葉県九十九里へ学童疎開し、戦後しばらく過ごすことに。太平洋の荒波のなか、よく水泳をしていたとのこと。そのおかげで体力には自信があり、今でも水泳は得意として続けている。
2時間かけて通った千葉第一高等学校では、女優の故市原悦子が同級生だった。
父が弁護士であることから、大学は中央大学法学部への進学。大学では茶道部に入り、宗匠から学んだ「相手の気持ちになって所作を」という教訓は今でも大切にしている。
大学卒業後、はじめは「諸悪を糾す」と検事への道も考えたが、父の傍らで同じく弁護士の道を歩むことに。
父の教えである「法中存愛」と書かれた書額を事務所に掲げている。厳しく冷たいと思われがちな法律だが、「法の中に愛が存在する。法律の解釈、運用にあたって人間として愛を忘れないこと」という意味の言葉だ。これを弁護士業務の信念として、市民に寄り添い市井の弁護士を目指してきたと浩紹さんは静かにして優しく語る。
弁護士として57年、今も現役として活動。概ね民事に携わってきたが、元総理大臣の田中角栄氏のロッキード事件の弁護にも関与し、当時はかの目白御殿に毎日通って打ち合わせ等をしていたという。
昭和40年、大学の先輩である弁護士の妹さんとご縁があって結婚。長女が生まれる時にUR亀戸2丁目団地に移り住み、3人のお子さんに恵まれる。2人の娘さんは残念ながら病気で逝去されたが、長男は現在検事として活躍中だ。
その後、江東区内で2回転居するも、大島一丁目のマンションで、昨年に奥様が逝去された後も暮らしている。
趣味は水泳と小唄。小唄は今でも師匠のもと習い続け、三味線の節に合わせて声を出し、日ごろの練習の成果を披露する三越劇場での発表会への参加も健康の秘訣のようだ。
人権擁護委員を務めて38年
弁護士の業務の傍ら、裁判所の民事調停委員を20年余り務め、学校のPTA会長、江東区の区民法律相談員、景観、建築、保険など種々の地域行政と関わる。それ故か、昭和60年、当時の江東区長、小松崎軍次氏から「人権擁護委員にならないか」と声をかけられ、多忙だったが推薦を天命と捉え、知見を地域に還元できればと引き受けた。そこから人権擁護活動への道を歩み続けることになる。
「人権」とは、すべての人が、いつでも、どこでも、同じように持っていると認められていて、平等にそして無条件に尊重されるものだが、現実はなかなか難しい。
人権擁護委員は人々の権利を守るために活動しており、さまざまな人権侵害に関する最も身近な相談窓口で、早期発見を担うアンテナ機能の役割も担っている。
全国の各自治体に人権擁護委員は必ずおり、全員で1万4千人、江東区では17人が就任している。江東区の人権擁護活動は活発で、人権相談・人権教室をはじめ、毎年12月の人権週間に区と人権擁護委員の主催で「守ろう人権講演とメッセージのつどい」を行っている。
「委員は皆ボランティアで活動しています。お住いのどの地域にも人権擁護委員がいるので、相談すれば必ず動いてくれます」と浩紹さんは語る。
「社会貢献へと駆り立てるものはなんでしょうか」と問いかけたところ、「弁護士という職業をとおして得られたものは、けっして私個人のものではなく、私を支えてくださった周りのすべての方々のおかげだと思っています。法曹人としての自分の知識や労力を、自分や家族を育ててくれた地域へのご恩返しの思いで活動しています」という言葉がかえってきた。
全国人権擁護委員連合会の会長を歴任され、平成10年に「江東区政特別功労者表彰」、平成17年に「藍綬褒章」、平成24年には「瑞宝小紋章」の叙勲を受けた浩紹さん。毅然とした振舞いのなかに、笑顔を絶やさない優しいまなざしに、初志貫徹、「法中存愛」の深い愛を感じました。