豊洲に開院して60年以上。豊洲医院の大(おお)先生、山中三千代さんです
患者さんと共に時を重ねて
山中三千代さん
昭和16年2月11日生まれ、78歳。
文京区本駒込で誕生。父は日本医科大学の教授。5人兄姉妹のうち、三千代さんを含め、3人が医師の道に進むという家系で育つ。
「小さいころはどのようなお子さんでしたか?」と伺うと「すぐ上の姉がとても活発でやんちゃ。姉と間違えられて男の子に追いかけられることもありました。そんな姉を見ていたからか、私は家で本を読んだり絵を描いたり、静かに過ごすのが好きでした」と笑みを浮かべながら話してくれました。
実家は上野広小路で100年以上続いた呉服屋さん。母の実家はお茶漬け海苔で有名な永谷園。踊りにピアノ、琴、三味線等々様々な習い事の出来る環境の中で生活を送った。
「どのようなお子さんでしたか?」と伺うと、「それを話すと皆さん驚かれますが、人前に出るのが苦手で、いつも兄の後ろに隠れているような内気な子でした。」
知詠子さん7歳の時に7歳年上の姉が突然病に倒れ他界。言葉に表せないほどの落胆の中。母が着付け教室をはじめ、心を立て直すかのように前を向いている姿を、鮮烈に覚えていると話す。
医学部入学
花嫁修業をしながら呉服屋さんを手伝っていた知詠子さん。23歳で、木場で材木屋を営む、6歳年上の男性とお見合いをし、24歳で結婚。「まじめで、実直で優しくて、地味なところに魅かれた」と笑う。
30歳で長男を、32歳で長女を出産。長女は2歳の時に重度の知的障害を伴う自閉症と診断される。
日中は子どもたちの世話と仕事で忙しく過ごしていたが、夜。子ども達が寄り添って寝ている姿を見ると、「なぜ娘がと、涙があふれて止まらなかった」と知詠子さん。
手探りでスタートした障害児のための放課後施設
勉強は大変だったというが、見事1回で東京女子医科大学に合格した三千代さん。「うちには、顕微鏡や聴診器、注射器がありましたし、若い医学生が父の元をたびたび訪れていたので、医学部進学は自然な成り行きだった」そう。
6年で卒業し国家試験にも合格。東京大学第一内科に入局する。その当時、女性は一人だったという。
「いじめられませんでしたか?」の問いに、「教授はじめ、先生方にとても気を使っていただき、優しく指導していただきました」と三千代さん。後、優しくしてくれた先生の一人、山中健さんと結婚。長男・次男・長女と3人の子どもたちに恵まれる。
父が豊洲医院を開業
三千代さんの父は、東京教育大学(現筑波大学)に移り、講義や研究をする傍ら、新宿と豊洲に医院を開設し、後輩医師たちに診療を託す。
豊洲での開設のきっかけは、友人から「豊洲に医師がいなくて困っている」と聞いた父が「その状況を何とかしたい」と決意したという。三千代さんも、東大に籍を置きながら、豊洲医院と新宿のつのはず診療所で診療を行っていたそう。
妻として母として医師として
医師2人を両親に持つ子ども達3人も、成長し医師としての道を歩む。特に長女の香里さんは、三千代さんの後を継ぎ、今は豊洲医院の院長を務めている。
「私が院長を務めていた時に、姉から老人介護施設を立ち上げるから医師として来てほしいと懇願され、当時、大学病院に勤務していた香里に無理を言って継いでもらったんです。大学との板挟みでかわいそうなことをしてしまいました」と話す三千代さんだが、香里さんは院長として、地域の方たちが安心して毎日を過ごせるよう、地域密着型の気軽に相談できる医院をめざし診療を続けている。
楽しみは孫たちの成長!
現在、週1回診療をしている三千代さん。「ずっと通ってくださっている方や、親子3代にわたってきてくださる方もいて、私に話しをするだけでも安心できると言ってくださっています。その言葉を励みに診療を続けます」という三千代さん。
「仕事を離れたところでの楽しみは?」最後の質問に、「5人の孫たちの成長。孫の一人はすでに医師としての道を歩み始めています」と優しいえがおでこたえてくださいました。