小安 勤さん(76歳)

株式会社千葉屋商店代表、豊洲町会元会長、深川消防団元団長 地域小学校評議員等 小安勤さん

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これからも豊洲のことを語り続けていきたい

昭和22年8月1日、江東区豊洲で生まれる。2つ上の姉と勤さんの二人姉弟。両親は現在の豊洲ターミナルのある場所で、「ちばや」という食堂を営んでいた。父が病弱だったため母がほぼ働きっぱなし。男勝りの肝っ玉母さんで頼もしかったとのこと。

当時の豊洲は石川島播磨重工業の工場が立ち並び、食堂には工場で働く人たちがひっきりなしに来ていた。朝は弁当、昼は定食、そして夜はお酒を出す居酒屋と大繁盛!  また作業員が寝泊りする工事現場が多くあったため、貸し布団も扱うようになった。その後、立ち退き要請のため豊洲駅の反対側に移転し、「ちばや商店」として商売が続く。

お母さんと一緒に。

資材置き場が遊び場

勤さんの子どものころの豊洲周辺は、遊べる公園などなく、石川島播磨重工業の資材置き場が連なり、まるで工事現場だったという。でもそこは男の子にはとっておきの遊び場。毎日探検ごっこ、秘密基地つくりなどして、近くの子ども達と一緒に飛び回っていた。時には東雲まで足を延ばしてハゼ釣りをすることもあったと当時を懐かしく振り返る。ガキ大将だったけど、いじめっ子じゃなかったよと笑う。地元の学校を出て、高校では陸上部で活躍、からだを動かすことが大好きだった。

大学卒業後は家業に

実家の「ちばや」は食堂をやめて、貸し布団業務を中心に営業していたが、配達に人手がいる問題もあり、大学を卒業後は家業を手伝うことに。様々な現場に布団を届け、仕事は忙しかったが商売としてのやりがいもあった。

当初のちばや食堂
移転後のちばや

地域活動は消防団から

先輩から誘われ、27歳で消防団に入る。そこから地域活動がはじまる。消防団で地域防災の意識が高まり、「組織で活動する」ことの大切さを学んできた。同じ志をもった団員との関係は今でもかけがえのないとのこと。そして56歳に豊洲町会の役員になり、そのわずか2年後に推薦されて豊洲町会の会長となった。 

その後、町会長12年、豊洲地区連合会会長を7年、消防団団長を4年間務めた。

町会長在任中一番印象に残ったことを伺うと、「豊洲市場の移転問題かな。地域住人代表として結構東京都とやりとりしてね。最終的には移転が完了した時は感慨深かったね」と。引き受けたからには一所懸命、いつも全力投球で取り組んできた。そのためなのか、横のつながりが増え、周りからも頼られ、感謝され、そして自分も感謝している、こんな関係が築けたことは自分の財産だと話す。70歳の時にはそれぞれの役職には区切りをつけたが、引き続き地域を支えている。

東京消防出初式表彰。

ちばや商店で小学校とのつながりも

ちばや商店は、豊洲地域の小学校6校の体操服を取り扱うことにもなり、子どもたちとの接点も多くなった。小学生親子が買いに来て、なんとなく子どもの成長を見守っている感じで嬉しいと。時には子どもたちが店に遊びに来ることもあると喜んで話す勤さん。

役職を退任した後も多くの小学校の評議員を任命されている。ちばや商店の関係もあるだろうが、勤さんの人望に違いない。いくつかの小学校で3年生社会科の授業に地域のゲストティーチャーとして呼ばれることがあるという。勤さんは昔の豊洲の写真を貼った大きなパネルを使って、豊洲地域の変遷を子どもたちに話している。そのたび子どもたちから多くの感想文を頂いているがそれも財産だよねと子どもたちからの手紙見せてくれた。

東京消防出初式表彰。

豊洲の「語り部」として、相談に来た人には「聞き役」として

今後の活動のことを伺ったところ「生まれた時からずっと豊洲で暮らしてきたので豊洲のことを語り続けていきたいし、相談に来た人にはやさしく「聞き役」になれたらいいかな」と。
「だんたん体力もなくなってきているので昔のようには出来ないかもしれないけど、欲張らず、少しでも地域のお役に立てたらいいかな」と言葉を添えた勤さんのやさしい笑顔が素敵でした。

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