柳原 美智子さん(95歳)

10年ほど前から描き溜めていた絵や日記を、今年『バァバの青春 追憶の絵日記』として出版した 柳原 美智子さん

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座右の銘は、人間万事塞翁が馬

昭和3年4月23日、滋賀県大津市で生まれる。6人兄弟の3番目で次女。「兄弟の中では一番やんちゃでえばっていて、そのくせ内弁慶だった」と笑う。

父は東レ株式会社の社員。母は専業主婦。負けず嫌いな性格でいつも成績は一番。習い事をしたことはなかったというが、思い出すのは、子どものときから地べたにしゃがみこんだり、家のすりガラスに絵を描いていたこと。お人形さんや道端に咲いている草花。いつか絵を習いたいと思っていた。

卒業後は大阪の薬品会社に就職

女学校時代に学徒動員として名古屋へ。夜中に空襲警報が鳴り響き、そのたびに防空壕へ逃げ込んだ。怖くて、辛い経験だったと話す。

卒業式も学校へ戻ることはできず、勤めていた工場で。卒業証書は小さな紙切れ、卒業写真はモンペ姿だったという。

結婚前。写真館で撮影。

卒業後は大阪の薬品会社に就職し、7年間勤め、遠い親戚という男性を紹介され、25歳で結婚、退職した。

3歳年上の夫は家具の製造加工を生業とし、穏やかな人だったそう。専業主婦として家庭を守っていた美智子さんも、忙しい時は作業を手伝っていた。

長女、長男に恵まれて

結婚して2年後に長女が、その4年後に長男が生まれる。

子育て、家事、夫の手伝いと「大変だった」と笑う美智子さん。「子どもの頃は、学校の仕度などすべて姉がやってくれたので、自分では何もしなかった」と、幼いころの日々を懐かしそうに振り返る。

家族4人名古屋で平穏な生活が続いたが、美智子さん53歳の時に、夫を見送った。

しばらく一人暮らしを続けていた美智子さん。東京で生活していた長女、恵さんの提案で、名古屋時代の友人と別れ、58歳で東京移転を決意。新天地となる、江東区での生活が始まる。

お孫さんとほおづき市へ。

生涯続く仲間との出会い

かねがね絵を習いたいと思っていた美智子さんは、東砂在住で多摩美術大学出身のご夫婦が主宰しているプライベート教室で、陶芸や絵を習うことになる。その後、先生やその時に出会った方々と「仲間付き合い」が始まる。

「友達に恵まれました」という美智子さん。ランチ会やコンサート、落語鑑賞、美術館巡り、果てはスケッチ旅行と称して、シンガポール、香港、ベネチア等々にも仲間たちと共に足を延ばす。

恵さん曰く、お誘いの電話がかかると、二つ返事で「行く行く」。いそいそと楽しそうに出かけて行ったそうで、「おかげでいい刺激をもらいました」と美智子さんはえがお。

お仲間と共に、箱根へ。

健康の秘訣は気楽に楽しむこと

1年位前から足腰が弱くなり、外出時は車椅子を使っているという美智子さんだが、90歳を過ぎても記憶はしっかりしているし、転んでも、ベッドから落ちても骨折もしない。骨粗しょう症でもなく、持病もない、という。日課を伺うと「夜型なので、午前2時ころまで脳トレをしたり、パズルを楽しみ、朝は8時から9時に起床。日中も時間があるとクイズや脳トレをしている」という。

最後に健康の秘訣を伺ったところ、「母のモットは人間万事塞翁が馬。嬉しいこと悲しいこと人生いろいろあるけれど、気楽に楽しんで過ごしていることが一番」と恵さん。

隣で聞いていた美智子さんのおだやかなえがお。とても素敵でした。

『バァバの青春 追憶の絵日記』
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