千田福祉会館主催俳句の会で
代表を務めている 岡村 守さん
百歳まで元気に過ごすことが目標
岡村 守さん
大正14年6月7日生まれ、96歳。
世界遺産の熊野古道で有名な三重県尾鷲市に生まれる。8人兄弟の6番目。クリーニング・染物業を営み、住み込みの職人を抱え常に忙しかった両親に代わり、姉たちがいつも世話をしてくれていたと振り返る。
小・中学時代は、1日も休まずに学校に通い皆勤賞をいただいたというが、それは「休むと家の手伝いをさせられるから。学校のほうが楽しかった」と苦笑いする守さん。
海や山に囲まれた自然の中で幼少期を過ごす。
無線・通信を学ぶ
時は、第2次世界大戦の頃。卒業後、ほとんどが陸軍士官学校へ進んだが、体格が小さかった守さん。手先の器用さをかわれ、技術を身につければどこでも務まると勧められ、東京の親せきを頼って上京。昭和18年無線通信を学ぶ学校へ入学した。20年3月、東京大空襲に遭遇。やっとの思いで助かったものの学校ごと栃木県に疎開。20年9月に卒業した。
終戦後、大阪商船に勤めるが、乗船する船がない、と自宅待機となる。中学校で教師をしていた兄から「手伝いに来ないか」と言われ、2年間、数学を教えていたという。同じ学校で家庭科の教師をしていた女性と知り合い、付き合い始める。
電波の灯台作りに、力を発揮
その後、海上保安庁に入庁。26年、無線を使って船の方向を指示する電波の灯台作りをやってみないかと声がかかり、八丈島灯台の無線局に赴任。立ち上げから関わり、軌道に乗ったところで、能登半島の舳倉島(へくらじま)の無線局へ移動。
その後、大阪大学の医療技術看護短大、パブテスト看護専門学校の教員として、看護師を目指す後輩の指導に当たる。
俳句と出会う
舳倉島で勤務していた28年に、教師時代に出会った女性と結婚し、長男・長女を授かる。
舳倉島無線局の所長が俳句好きということもあり、守さんも俳句をたしなむこととなる。
その後、新潟勤務を経て数々の電波灯台の建設・運営に貢献し、55年霞ヶ関にある海上保安庁に勤務。58年には横浜にある海上保安試験研究センターに移動し2年後に定年退職。61年電気工事会社に再就職し70歳まで勤める。その間に勤め先の近くに住まいを探し、現在の江東区へ転居した。
俳句の会代表として充実した日々
江東区と言えば、芭蕉ゆかりの地。ずっと俳句を楽しんでいた守さん。早速、芭蕉記念館の俳句の会に参加したが、長年連れ添った妻が認知症を患い、介護の合間に通える、近くの千田福祉会館の俳句の会に場所を移し、俳句を続ける。
「妻の介護は全部やりました」と話す守さん。80歳での旅立ちを見送ることとなる。
現在、千田福祉会館主催の俳句の会で代表を務める守さん。パソコンで会員のリストを作成し、スマホで連絡メールを送り、5年に1回、会の句集も作成しているという。
「少し前までは、オリンピックが目標だったけれど、今は百歳まで元気に過ごすことが目標」とえがおの守さんです。