宮崎 信恵さん(80歳)

障がい者や高齢者の問題等をテーマとした映像の企画プロデュース、
監督として活躍する ピース・クリエイト 代表取締役 宮崎 信恵さん

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これからも、自分らしく 作りたいテーマに向き合って生きて行きたい

宮崎 信恵さん

昭和17年7月28日、東京で生まれる。第2次世界大戦まっただ中。2歳の時に父の郷里、和歌山へ家族で疎開。風光明媚な海と山の町、御坊で暮らす。

約2000坪ある広い敷地内に、父の姉妹家族も暮らし、信恵さんは20名くらいいる、いとこたちと過ごした。大家族の中で暮らす楽しさや、思い通りにはいかないというもどかしさを自然に体得したと話す。

父は、作家志望だったが、生活の糧として、敷地内に工場を造り、夏はアイスキャンディー、冬は飴を、人を雇って売っていたという。

一方、母は新劇の女優。疎開中も近くの高校の演劇部で指導をする等、芝居から切れない生活を送っていた。

昭和26年12月 東京へ戻る

信恵さんが小学3年の時に、東京北池袋に住宅を購入し転居。地域の小学校へ編入したが、教師から田舎から出てきた「関西弁の田舎っ子」のように扱かわれ、そんな教師の扱いに反発する思いが強く、その思いが勉強をする原動力になったという。

26歳で、東映株式会社教育映画部にて編集助手に

高校・大学と演劇部に所属していた。卒業後も表現活動をしたいと考え、昭和43年東映株式会社教育映画部にて編集の助手になる。その後、フリーのスクリプター(記録係)として、教育映画、劇場用映画、TV映画の作品に従事。

映画を製作するうえでスクリプターは重要な仕事だが、監督になりたいという想いがあった信恵さん。会う人ごとに「監督をしたい」とアピール。

昭和50年、信恵さんが34歳。時代は女性の社会参加が叫ばれ始めたころ。「1本とってみるか」という話が舞い込む。「お母さんの自立宣言」という30分のドラマが、初めての1本となる。

62歳で新会社設立

翌年、学習研究社企画・制作の短編教育映画「愛の架け橋」で正式に監督としてスタート。昭和57年からは、東京シネ・ビデオをホームグランドに、福祉、介護、国際協力、ボランティア等をテーマとした作品を監督。その後、同社の取締役となって経営に参加しながらも、積極的に映像の企画プロデュース、監督として、数多くの作品を製作。高い定評を得て、数多くの賞を受賞している。

60歳を過ぎ、これまでの経験を更に活かすべく、また、もっと自由に作品を作りたいと、高齢者・障がい者 福祉・介護映像の専門、ピース・クリエイトを設立。代表取締役となる。

『無明の人』アメリカロケ風景とちらし。
9月1日から20日まで開催されている倉持弘写真展「ザ・下町―77年―」DMはがき。

最後のまとめとして、介護をテーマに

『終わりの見えない闘い』スタッフとちらし。

保健師さんから届いた1通のメールがきっかけとなり、昨年、コロナ対応の保健所を描いたドキュメンタリ―映画「終わりの見えない闘い」を監督。1週間から10日に1回、1年間保健所に通い、新型コロナウイルスと保健所の闘いを完成させた。

様々なテーマに取り組んできた信恵さん。

「80歳を過ぎ、これから最後のまとめに入るとしたら、介護に戻ろうかなと考えています。今の時代、介護のことは誰も避けて通れない問題。『本当にこれでいいの? 安心して死ねるの?』そんな投げかけができたらと思っています」。

宮崎信恵オフィス
ピース・クリエイト有限会社
http://www.peace-create.bz-office.net/

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